手書き浄書の世界

 今回のテーマはコンピューターが普及する前に行われていた手書き浄書の世界。長い楽譜の歴史の中で積み上げられてきた、浄書職人の工夫に満ちた技を少し覗いてみよう。

 故・土田敏雄さんは長年手書き浄書の仕事をされてきた。土田さんの作られた楽譜は数多く出版されており、土田さんが楽譜を製作したことはだれも気づかないが、音楽の土台をしっかり支える重要な部分であることを認識したい。

楽譜作りに必要な道具

楽譜

土田さんに楽譜が作られていく過程を見せていただいた。仕事部屋には机、定規、それに道具を納める棚、鉛の活字をひろって文字を打ち込む大きなタイプライターが置かれている。

上質紙:土田さんの用紙には薄い緑色でいくつかの線(ガイドライン)が印刷されている。
製図板:用紙を止めて作業する。
定規:T定規、三角定規(インクが定規に付いて紙を汚すのを防ぐために、断面に工夫がなされている)。
カラス口:普通用とダブル・カラス口。五線、縦線、スラーなどを引くために重要な道具。ダブル・カラス口は、連桁を引くときに使う。
墨:きれいな仕上がりにするため黒光りする最上質の墨を使う。
インク(油性):はんこ用。
スラー定規:スラーやタイを書くためのいろいろな形、大きさのものを自作する。 五線針:五線のサイズを簡単に決めることができる道具、各サイズの五線を引くときに使う。土田さんの自作。
はんこ:木製、押す面がプラスチック製、鉛製のものがある。

——昔はんこ屋さんに檜で作ってもらったんです。符頭は卵形、平たすぎると貧弱になってしまいます(土田さん) その他コンパス、カッター、音楽辞典など。

楽譜『ダブル・カラス口』
楽譜『はんこ』

楽譜レイアウトの決め方  

土田さんに楽譜浄書をする際のレイアウトの決め方を教えていただいた。

1、原寸か拡大か

 原譜を見て、原寸で作るか拡大して作るかを決める。音符や歌詞が込み合っている場合は拡大して作り、縮小して印刷した方が作業しやすいし、荒い部分が隠れ仕上がりがきれいだ。しかし原寸の場合は妥協が許されない。  
土田さんは拡大して作る時も原寸で作る時と変わらぬ厳しさで楽譜に向かう。

2、紙の大きさと五線のサイズ  

 楽譜はおもにB5(257×182ミリ)、A4(297×210ミリ)、菊判(303×227ミリ)で作られる。  
 五線のサイズ(第1線から第5線までの間隔)はふつうB5が5.5〜6ミリ、A4が6.5〜7ミリ、菊判が7ミリ(一般にミリメートルを単位にする)。 B5判を例にすると、紙の大きさは天地(紙の縦方向のサイズ)が257ミリ、左右が182ミリあり、そこに書く五線は天地210ミリ、左右148ミリに収めると見やすくぴたりと決まる。  
土田さんの長い楽譜製作の経験と感性によって作り出された「美」である。

3、ページ数を決める  

 原譜の小節数を数え、計算し楽譜の出来上がりを頭に入れて作る。成り行きでは作れない。途中で修正すると時間が余計にかかる上、きれいに仕上げるのが大変だ。

4、割り付けをする  

 各ページの五線の配置、各段の小節数と小節線の位置を決めていく作業を「割り付け」という。演奏しやすく、反復やページのめくりなども考慮しながら、しかも出版物としてのページ構成の制約の中での熟練した作業となる。

楽譜『浄書の世界を懇切ていねいに説明してくれた土田さん』

 

ピアノ譜の制作工程  

最後にピアノ譜を実際に制作する過程を見てみよう。

1、レイアウト決め  

 今回は楽譜を拡大して制作する。用紙にあるガイドラインのサイズは横200ミリ縦280ミリ。五線サイズは8ミリ、五線の長さは197ミリ。縮小印刷してB5判の6ミリ楽譜にし、1ページ内に入れる段数を決める。

2、五線を引く  

 まず用紙を製図板に固定する。製図板は使いやすいように奥の方を少し高くし傾斜をつける。T定規を使い紙をまっすぐ固定する。これが基準となり、五線が引かれる。  

 紙の各辺に中心の印をつける方法もあるが、土田さんの紙には紙のサイズ、五線の天地左右の位置が書き込まれている。  
 次に五線針を五線の開始位置に打つ。五線の長さはすべて同じでなければいけない。左右両端を合わせるには左端は五線針で決め、カラス口で五線を引くときに右端は紙でマスクしておく。わかってしまえば「なんだ、そんなことか」と思ってしまうが、作り手のアイデアがいたるところに詰まっている。  

 カラス口に墨を差して五線を引く。カラス口は市販のものそのままでは使えない。先端は五線をきれいに引くポイントになるからヤスリで研いで自分に合う道具にする。「最初は師匠が五線引きからさせるんです」。カラス口を使いこなし線の端から端まで、5本の線がみな均等な太さ、均等な間隔に引くには熟練が必要だ。  
土田さんは言う、「五線を見るとその人の腕がわかる。だから、カラス口が大事ということです」。

楽譜『五線針』

 

3、音符割り付け

 五線を引き終わったら「音符割り付け」の作業だ。楽譜が見やすいか見にくいか、これがその人の腕の見せ所だ。
 ハ長調の場合拍子記号に9ミリとり、五線の左端から17ミリのところに最初の音がくる。音符と小節線に少し間隔があるが、土田さんは3.5ミリとっている。そうするとちょうど見やすい楽譜になる。1小節を47ミリにとり、音符の混み具合により微調整する。これで割り付けが決まった。譜面の設計図ともいえるこのような作業が重要なのである。

4、音符を入れる

 音符は符頭、符尾、加線、連桁などでできているがそれぞれ作業は別になる。
 符頭ははんこになっているので、ローラーのインクをつけて押す。正しい位置に押せるように、はんこの先に目印がついている。  
「はんこによっては(符頭は五線に対して斜めになっている)、角度をつけて押していきます。このとき紙を右下がりに回転させて押します」。  
インクは印刷用の黒色を使う。ローラーでインクを伸ばす。「今は溶かす薬があるので楽ですが、昔はガラス板の上で練って柔らかくするんです。半日やってもトロトロにならなかったですね」。  

楽譜玉(符頭)に対しての符尾の線の引き方に注意する。玉から出てはいけないし、だんごのように玉の中に入ってもいけない。玉側から引くときれいに引ける。  
加線(画像挿入)があるところはあらかじめ青鉛筆などでガイドラインを入れておく。符頭、符尾を書いたあとで書き入れる。  

楽譜連桁はダブル・カラス口を使って五線の線間の2分の1の太さで書く。連桁が2本以上あるときは、間隔をそろえなければならないが、プロでも難しいそうだ。
 スラーを引く定規は楽譜製作者が自作する。下の写真のように、スラーの長さに応じて何種類か作っておく。スラーの中央部分が少し太くなっているが、カラス口で2回引くことによって描かれる。スラーのカーブ、両端、厚みに製作者の感性が現れる。

楽譜『土田さんが使用するスラー用の定規』楽譜『土田さんが浄書したピアノ譜』

 ここで、飛び出た線を削るなど細部を修正し、最後に旗などのはんこを打つ。  ところで、楽譜に使う線の太さは同じではないことにみなさんはお気づきだろうか。五線とスラーが一番細く、符尾、小節線、加線の順に太くなる。これをカラス口の微妙な操作で書き分けているのだ。まさに職人芸である。

 土田さんは働きながら音大で作曲を学び、プロのヴァイオリニストを志したこともあるそうだ。「楽譜は文化である」という持論のまま、今日も《美しく演奏しやすい楽譜》の浄書に取り組む。

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